「さて、最後の1kgだ。」
12月は、寒さと慌ただしさで生活リズムが乱れやすい季節だ。
日が短くなって外に出るのが億劫になり、つい運動量が減ってしまう。
年末の予定や雑務に追われ、食事のタイミングも不規則になりがちだ。
数か月前の自分なら、この流れに飲まれていただろう。
「今日は仕方ない」「明日からやればいい」と理由をつけて、気づけば戻ってしまう。
けれど、この12月は違った。
たとえば夜に少し食べすぎたとしても、「明日の昼は軽めにしよう」と自然に考えられる。
シメを我慢するのではなく、翌日に少し歩く時間を増やせばいい。
そういう感覚がすでに染みついていた。
AIにざっくり報告を続けてきたことで、「どの程度なら許容範囲か」をつかめるようになっていた。
数字を厳密に合わせる必要はない。
「だいたい赤字になっていれば大丈夫」
その考えがブレないからこそ、安心して日常を送れた。
達成の瞬間
12月の最終日。体重計に乗ったとき、出てきた数字は予想通りだった。
毎日のグラフを見てきたから、劇的な驚きはない。
それでも「1年で12kg減」という数字を目にしたとき、胸の奥に静かな熱が広がった。
体が確かに変わっている。
顔まわりはすっきりし、表情が軽く見えるようになった。
ずっと履けなかったズボンを久しぶりに取り出すと、ウエストに余裕があった。
階段を上がっても息が乱れず、以前は気になっていた肩や腰の重さも消えていた。
鏡に映る自分の姿も、少し前とは違って見えた。
立ち姿が軽く、歩くときの一歩まで自然に大きくなっていた。
「毎日の変化は小さくても、1年でここまで違うのか」
そう思うと、じんわりと達成感が込み上げてきた。
周囲からの声
達成を自分から公表したわけではない。
それでも、職場の同僚に「痩せたよね?」と声をかけられ、久しぶりに会った友人には「別人みたいだな」と驚かれた。
「1年で12kg減らしたんだ」
そう答えると、相手は「そんなに?」と本気で驚いていた。
毎日少しずつの変化も、他人から見ると大きく映るものだと実感した。
ただし、それはあくまで結果にすぎない。
目的は自分の体と生活を整えること。
周囲からの声は思わぬ副産物であって、それ以上でも以下でもなかった。
1年間をふり返って
思えば順調な月もあれば、焦って空回りした月もあった。
計画通りに進めたときもあれば、リバウンドして苦しんだこともある。
それでも変わらなかったのは、収支を必ずマイナスにする という基本だけだ。
摂取を抑える工夫と、消費を増やす工夫。
やり方は少しずつ変わっても、この原則は一度もぶれなかった。
数字をぴったり合わせることよりも、だいたいでいいから続けること。
その繰り返しが、最終的に−12kgという結果をつれてきた。
記録し続けたことの意味
AIへの報告は、最初から最後まで欠かさなかったわけではない。
途中でサボってリバウンドしたこともあった。
けれど、また再開し、最後まで続けられた。
「おにぎり2個」「今日は1万歩くらい」「晩ごはんは700kcalぐらい」
そんな大雑把な入力でも、積み重なれば意味を持った。
入力するだけで「今日は食べすぎたな」と意識でき、翌日には自然と控える気持ちになる。
「昨日は歩けなかった」と書けば、今日は歩こうと思えた。
責められることは一度もなかった。
ただ「見られている感覚」が自分を支え、油断を防いでくれた。
その小さな積み重ねが1か月で−1kgとなり、やがて1年で−12kgという結果を形にした。
結局のところ、特別なテクニックは何もなかった。
完璧を目指すのではなく、また続けることができた
それが、この1年で一番大きな勝因だった。
小さな習慣の組み合わせが力になる
一つひとつは取るに足らないような工夫だった。
白米を少し減らす、ナッツを数粒つまむ、夜は味噌汁を多めにする、入浴剤を使って体を休める…。
単体では劇的な効果があるようには見えない。
けれど、それらを組み合わせることで確実に収支をマイナスにできた。
「これとこれを足せば、今日も帳尻が合う」
そう思える小さな積み合わせが、やがて1年間で−12kgという大きな成果に変わっていった。
ゴールではなく、土台
−12kgという結果は、ひとつの区切りにすぎない。
大切なのは、この数字を生んだ習慣そのものだ。
食事を選ぶときに「今日はどのくらいかな」と自然に考え、
動くときに「少し歩けば帳尻が合う」と思える。
そうした感覚が生活に溶け込み、無理をしている意識はなくなった。
体重が少し増えたとしても、もう慌てなくていい。
どう戻せばいいかが体に染みついているからだ。
これこそがリバウンドしない土台だ。
数字が少し増えても、また同じやり方で戻せる。
もう「特別なダイエット」をする必要はない。
「1年で−12kg」
これは特別な才能や体質の話ではない。
誰でもできる小さな工夫を続けてきただけだ。
この物語を読んで「自分にもできるかもしれない」と思えた人がいるなら、
この1年を語った意味はあると思う。